図書館は誰のためにあるか

図書館関係者には関係者としての想いがあるだろうけれど、個人的に図書館は子どものためにあると思う。 大人が10倍来ようと、子どもの利用が減る図書館は「良い図書館」とは言えないと思う。

図書館でありがたいのは無償で本を借りられること。
無償で本を借りられることの恩恵を一番に受けるべきは子どもだと思う。
子どもは保護者に買ってもらえない限り、本を手にすることはできない。

本がない家というのは存在する。
そういった家の子どもが与えられた小遣いから本を買うには、まず最初に面白い本に出会わなければならない。「こんな面白いものがあるのか!」と気付いてはじめて、小遣いを握りしめて書店へ行く。

その最初の出会いは友達の家の本棚でも良いし、学校の図書室でもいい。ただ子どもが自由に手に取れて、じっくりと向き合うことができなければならない。家に本のある恵まれた家庭なら、兄弟や保護者の本棚が最初の出会いとなるかもしれない。

その出会いをきっかけとして膨大な書物の存在に気付くことができたとき、図書館は最良の友となり得る。

だから図書館が無償であることの恩恵は、子どもが一番に浴さなければならない。

このように考えたとき、気になるのは「プレミアエイジ」である。
プレミアエイジや「図書館に縁遠かった層」に訴求する図書館である。
そもそも小中学生の図書館利用は多いとされていた図書館に、上記の層を呼び込もうとする図書館である。

子どもが使えるお金は保護者によって決められている。
どんな子であろうと、その保護者が許さなければお金を持つことはできない。
だからこそ図書館は無償でその子らの知的欲求に応える必要があり、その共同体の構成員たる大人はこれを守り育てなければならないと思う。

著作物を無償で摂取できることは恩恵だ。しかしこれは互恵でもある。そうして育った子どもたちがやがて自分の子どもたちに同様のことをし、あるいは自身が著作する側にもなるかもしれない。そうやって知識の樹は伸び、幹は太り、枝は繁ってゆく。この連環を絶やさぬようにするには、家を超えた共同体による互恵が必要であると思う。その中心に公共図書館があれば、知的基盤となり我々を支えてくれることだろう。

図書館と書店は違う。
コーヒーが飲めることが図書館の本質的な価値とは思わない。
大人のコーヒーに、あるいは喫煙席に、商品を買った人が売り物の本を持って座る席のために、図書館の書棚の場所が奪われ、あるいは子どもたちの椅子、子どもたちの机、子どもたちの居場所が削られてしまうなら、たとえどんなに大人が来ようと、いくら売り上げようと、どんなに有名になろうと、「良い図書館」ではないと、個人的には思う。