武雄市長の『「力強い」地方作りのための、あえて「力弱い」戦略論』を読んだ

「公務員は楽」的な指摘もあるけれど、武雄市の職員は大変だ。市長がバンバン思いついてドンドン企画を考えて、さらに決まったことをあっさり変えて、さらにそれらをすっかり忘れてしまう。この本はそうやって市長がしてきたことと、それらを職員がフォローした話が盛りだくさんだ。

 しかしだ。僕は失敗の分析はまずやらない。失敗の分析をやっても、同じことが起きるわけもないし、やっても無駄だと思ってしまう。それより、新しいこと、面白いことを考えたい。そして、なによりも失敗の分析をやっていたら暗くなる。そうなると次回頑張ろうとは思わない。
 失敗には目をつむる。そして忘れることが一番だ。そして、また、僕の失敗には効用がある。市長でも失敗するんだ、そして、失敗してもむしろ、褒められるんだということだ。だからどんどん失敗するつもりだ
 「やらずに失敗するよりは、やって失敗してくれ」というのが僕の最近の口癖。成功するのは難しいが、積極的に失敗すること。これは気が弱くてもできることだ。そしていつかはきっと上手くいくだろう。
樋渡啓祐『「力強い」地方作りのための、あえて「力弱い」戦略論』ベネッセコーポレーション, 2008, p.65

引用中の強調は著者自らによるもの。最初からポイントが強調されていて、各エピソードも4ページ程度にまとめられておりたいへん読みやすい。このあたり市長のサービス精神がいかんなく発揮されていると感じる。

「嫌だったら選挙で落とせば良い」 というのは当時(2008年)から一貫している。

 市長という職業はすごい。やろうと思えば何でもできるし、何もやらなくても職員がやってくれる。しかし、やってもやらなくてもその審判は4年後に下るわけだ。どうせ選挙で落ちるのなら、やるだけやって落ちたほうが僕らしくていい
同掲 p.112

さらに武雄温泉駅の改築に関して、当初案が「白を基調にしてどこにでもある蒲鉾のような駅」だったのを「見た瞬間、絶句」し、変えられないか?と言う。職員は「行政は継続性が命だ。市長が替わってコロッて変わったらかえって批判を浴びると思うが」と食い下がるが市長は「しかし、こんなどこにでもある駅を残してどうするんだ?僕は批判されても構わない。政治家だから4年後に市民に判断してもらう。オリジナリティあふれるものがいい」と譲らず、では市長が案を考えて欲しいと言われる。そして市長は「東京駅の赤煉瓦、楼門の朱でまとめる」ことをひらめいて、その通りにすることになる。

 ここで書いたとおり、思いつきと強引な論法で赤レンガにしたのだが、この担当者は、JR、佐賀県、国土交通省、地元の協議会などを走り回ったと後で知った。そして、かなり怒られたそうだ。そりゃそうだろう。決まっていたのをひっくり返したのだから。武雄市役所のすごさは市長の忘れっぽさとそれを補って余りある職員の頑張りだ。
同掲 p.115

#takeolibrary で初めて市長の考えに触れたが、図書館だけでなく他のことがらについても同様のスタイルでおしすすめられているのが武雄市なのだということが良く分かった。


余談だがこの本を図書館で借りる際、隣に平井一臣『首長の暴走 −−あくね問題の政治学−−』(法律文化社)が排列(どちらも「318.2ヒ」)されており、これもあわせて借りた。こちらも興味深い本だったので、一つ引いておく。

 ここで私が〈新自由主義心性〉というのは、簡単に言うと、これまでの政府の役割や活動を極限にまで縮減して、市場の論理、民間の論理に委ねることをよしとする感覚ないしは考え方を指します。市役所は民営化すべきという竹原市長は、まさにこの〈新自由主義的心性〉の持ち主であると言ってよいでしょう。

 私は最近、大学での講義のなかで次のような話をしています。「たとえば、私が、ある民間会社に対して一万円払って、何らかのサービスを求めたとしよう。その場合、私は私が支払った一万円分のサービスを要求するだろうし、もしその会社からうけたサービスが一万円以上のものと感じた場合、私はその会社を高く評価するだろう。では、私が税金を一万円払ったとしよう。その一万円の税金について、私が民間会社に支払う一万円と同じように、『元をとる』、『元以上とれたらさらによい』という発想をもったらどうなるのだろうか。」
 私たちが支払う税金を、民間会社に支払うのと同じ感覚で捉えた場合、子どもはどうなるのでしょうか。生活保護を受けざるをえないような担税力に乏しい人はどうなるのでしょうか。しかし、昨今の社会の雰囲気は、この税金に付いても「元をとる」という発想があるのではないのでしょうか。そして、自分自身に還ってこない場合、それは「税金の無駄」という捉え方を私たちはしていないでしょうか。
平井一臣『首長の暴走 −−あくね問題の政治学−−』法律文化社, 2011年, p.142

「ビジネスマインデッドな行政官」 の「マインド」について最近よく考える。図書館の「公共性」もそうだけれど、「公共」が保つべきものの共通了解が得られづらくなっているように思う。